真田信繁の正室や長男とは誰なのか?年表から見る時代背景!

真田信繁の正室や長男とは誰なのか?

年表から見る時代背景!

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真田信繁の活躍した時代や背景!

真田信繁は安土桃山時代から江戸時代初期
にかけての武将です。

 

真田昌幸の次男として生まれて
現在の世の中では「真田幸村」として多くの
人に知られている存在の歴史上の人物です。

 

真田信繁は大きく活躍をしたのは
江戸時代の初期の大坂の陣です。

 

豊臣方の武将として活躍をして大坂夏の陣では
徳川家康の本陣まで攻め込んでいます。

 

現在の人々に多く知られているのは
徳川家康に果敢に挑む英雄的武将として
語られるようになったからです。

 

真田信繁が真田幸村と名付けられたのは?

真田信繁とは信繁の名前よりも「真田幸村」
として名前を聞いたことがある人が
多いのではないでしょうか。

 

真田信繁というのが本名ですが
真田幸村というのは後世の人が名付けたもの
だといわれています。

 

1672年の軍事物語「難波戦記」で初めて
真田幸村として名付けられているようです。

 

それから時代が過ぎていくにしたがって
真田幸村の名前が浸透していった
ようですね。

真田信繁の正室とは誰なのか?

真田信繁の正室は「竹林院(ちくりんいん)」

 

真田信繁の正室である竹林院は安土桃山時代
から江戸時代に生きた女性です。

 

大谷吉継の娘・妹・姪のどれかであると
言われているようですが、はっきりと信頼
のできる資料はないようですね。

 

文禄3年、西暦1594年ごろに真田信繁に
嫁いだようですね。

 

慶長5年、西暦1600年の関ヶ原の戦いで
父と夫が西軍についたので、彼女は義父で
ある真田昌幸の正室とともに実父の吉継に
保護されました。

 

慶長20年、西暦1614年5月7日に
大坂夏の陣で夫である真田信繁が戦死をしました。

 

そのために徳川家康に命じられた「紀伊藩主
浅野長晟の捜索で隠れていたところを
発見されて、京都の家康に引き渡されました。

 

しかし、無罪となってその後は京都で
暮らしたようですね。

 

慶安2年、西暦1649年の5月18日に京都で
亡くなったとされますが正確な没年は不詳
だそうです。

真田信繁の長男説や長男とは?

真田信繁は真田昌幸の次男として有名
なんですが・・・・

 

実は、真田昌幸の長男であったのでは
ないかと言われています。

 

真田信之のほうが次男だったようだが
信繁の母親のほうが信之の母よりも身分が
低かったために長男と次男を入れ換えられた
という説があるそうです。

 

そして、真田信繁の長男は「真田幸昌」です。
母親は「竹林院」です。

 

「大助」というのは通称です。

真田信繁の年表から見る時代背景!

真田信繁(真田幸村)の年表

・1567年
「真田信繁(幸村)誕生」
真田信繁は人質として武田家へ

・1575年(8歳)
「父の昌幸が真田家の当主となり信繁は
武田家から真田家へ帰参

・1582年(15歳)
「武田滅亡で真田家は織田家に恭順」

・1585年(18歳)
「真田家は上杉家に仕えることになって
真田信繁(幸村)は上杉家へ
その後上杉家が豊臣秀吉に仕えることに
なったので信繁(幸村)は豊富家へ」

・1590年(23歳)
「真田家が石田三成率いる軍に参加をして
真田信繁(幸村)は忍城攻めに参加をした。

・1594年(27歳)
「秀吉にと豊臣姓を賜って、豊臣信繁(幸村)
となった」

・1600年(33歳)
「関ヶ原の戦い。真田信繁は父とともに
西軍につきましたが敗れて、九度山で
幽閉生活を送った。

・1612年(45歳)
「父の供養のために武家身分を捨て僧籍に
入った」

・1614年(47歳)
「大坂冬の陣。大坂方から誘われて
真田信繁は参戦をしました・

・1615年(48歳)
「大坂夏の陣。安居神社で松平家西尾宗次
に首を獲られて亡くなりました」